迷えるイカ記

洋楽オルタナティヴロック、イラスト、そのたいろいろなものがたり

神々のたそがれ-人間が神になるわくせー(とあるロシア映画について)

 他人の問題に介入するのは、あまり好きではない。自分の居心地をよくするためには、仕方なくやることもあるけど。大体の人は他人に好感を持ってもらいたいので、やろうとはしないように見える。

自分はもう、自分の居る場所や、自分が大切にするべきものをはっきり決めているので、頭のどこかでは、いつでもこんな関係やめてもいい思っているので、なんとでもできるのだけどね。

たまに、ネットを見ながら「お前は、お前らは神か!」と言いたくなるし、実際言っていることもあるけど、よく考えると「お前こそ神かよ」だよね。ああ。

インターネットはこのように誰でも神のように振舞えると言ってもいい。とはいえ、それで何かが改善されるかどうかは別だけど。まぁ、一番インパクトのあるのは、消える事なのかもしれないね。

「神々のたそがれ」(かみがみのたそがれ、英語題: Hard to Be a God)は、アレクセイ・ゲルマン監督による2013年のロシアのSF映画

舞台は、とある惑星の都市アルカナル。
その惑星は、地球より800年ほど文明が遅れており、ルネッサンスが永遠に訪れる事のない中世のようでもあった。この地に地球から送りこまれた調査隊の人間が目にしたものは、権力者の圧政、殺戮、知的財産の抹殺。そして、調査隊の地球人は神として崇められているものの、この地で政治的介入をしてはならず「傍観者である事」を厳命されている。

作品はと言うと、とにかく凄い!としか言えない。記事のタイトルの「惑星」を「わ、くせー(臭い)」とダジャレにしてしまったが、実際に出てくるのは、汚い。キツイ。暴力、魚の鱗?、泥土、泥土、泥沼、泥沼。糞。糞。糞。

エーコが「これは我々の物語だ」と感想を述べてるが、エーコ(我々)も惑星の民でもあり、神(人間)でもあると言っているのだろう。要は、ウンコもウン(コ)ベルト・エーコも一緒だという事だ(だれうま)

この「たそがれ」と言う言葉から思い浮かんだのが、たそがれ=ぼんやりと考える事なんだけど、正確な意味を調べてみると「1、夕方の薄暗い時。夕暮れ。2、盛りを過ぎて終わりに近づこうとするころ。『人生の黄昏』」と書いてある。「古くは『たそかれ』。『誰 (た) そ彼 (かれ) は』と、人の見分けがつきにくい時分の意」なんでも源氏物語の夕顔の巻にも使われている古い言葉なのだそうな。ほほー!

映画の英語題は「Hard to Be a God(神様で居る事は辛い)」、原作の小説の題名のロシア語「Трудно быть богом」を英語に(グーグル)翻訳しても「It's hard to be a god」になる。翻訳もかつて出版されていたが「神様はつらい」という日本語題がついている。

なぜ日本語題が「(神々の)たそがれ」になったのかと言うと、一つには「神々の黄昏」をウィキペディアで調べると「北欧神話に伝わる世界の滅亡『ラグナロク』がしばしばこう訳される」と書いてあり、「ワーグナーの歌劇(オペラ)『ニーベルングの指環』四部作の4作目に当たる」...と、簡単に書いたけど、「ニーベルングの指環」自体も

    序夜 『ラインの黄金』(Das Rheingold):2時間40分

    第1日 『ワルキューレ』(Die Walküre):3時間50分

    第2日 『ジークフリート』(Siegfried):4時間

    第3日 『神々の黄昏』(Götterdämmerung):4時間30分

と、暇人かよ!と、壮大な?物語の有名な一幕(ひとまく)らしいのである(汗汗)

ちなみに、このワーグナーの神々の黄昏”Götter dämmerung ”を英語にすると 「Gods twilight」 になる。 「twilight」を辞書で調べると「薄明り」のほかにも「衰退期」と言う意味もあるので、少なくとも歌劇の中では神々は黄昏ているんだろうと思う(図書館でじょ、じょじし(ニーベルンゲンの歌)も借りてきたけど、かなりよさげだったので、じっくり読む)。

思い切り横道にそれてしまったけど、理由の一つ(なぜ「たそがれ」になったのか)は、なんとなく神様ってのは黄昏ているんじゃね?というイメージからつけられたと独断を宣言する!それ以外にも「黄昏」の漢字を見るだけでも「昏」には「暗い 精神がはっきりしない」と言う意味も含まれる。この映画を見ればわかるが、映画にかちっとハマる題名だと思う。この小説が発表された1964年。現在ロシアと呼ばれている国がソビエト連邦と呼ばれていた時代。1968年には社会主義の崩壊を巻き起こしたとも言われるチェコ事件が起きました。(社会主義体制の中での自由化・民主化を目指したチェコスロヴァキア政府の改革を、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構5カ国軍が軍事介入して抑圧した事件)

そんな時代に送られ傍観者という鎖をはめられた神(ドン・ルマータ)を想像しながら見ると、「神様でいるのがつらい」わけも、「黄昏た」理由もより深くわかると思います。小説の中でも圧政や、言論弾圧、文化や知識の剥奪、それを嘆く神であるドン・ルマータの様子が描かれ、映画ではそれに対して「傍観者でいる」事にくたびれて、ついには憔悴してしまい黄昏時を過ごしている、そんなドン・ルマータの様子を残して映画が完結する。

 悲しい事に、これは当時の社会主義国家に対する強烈な批判であったのですが、エーコが「我々の物語だ」と言うように、その時から世の中はそれほど進んだか?と言うとそうは思えません。いや、あの時代を思えばましだろうけど、あのベルリンの壁が崩壊した時はもっと明るい未来を思い浮かべた人も多かったのではないでしょうか?

現代に放流された「神々のたそがれ」という作品は、原著を読まないとなかなか理解できないし(しかも、日本では古本でしか入手できない)その他もろもろの理由でお勧めできませんが、ことば、時代、ソビエト社会主義社会主義の崩壊、うんこ...等々...色んなエッセンスを中途半端に雑に放り込んでみました。

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 ちなみにこの記事はこの時思いついて先週頭にはほぼ書き上げていたものである。

次回はラジオトークで紹介した曲をまとめようかなとは思っています。

2017年の黄昏時黄昏町より。

ばいちゃ!!