今年はライブとかバンドTとか買ったりしたので、結構それ以外になかなかお金も時間も体力も回してないなという感じの一年だった。私自身は充実していると思う。水彩画もF10ぐらいの絵を月に2枚以上は描いているけど、体力や時間的なのもいっぱいいっぱいだった。課題の絵を描く予定だった時間をちょっと変更して、
最近映画にもいけてないので思い切って、PERFECT DAYSを見に行ってきました。
「パリ、テキサス」「ベルリン・天使の詩」などで知られるドイツの名匠ビム・ベンダースが、役所広司を主演に迎え、東京・渋谷を舞台にトイレの清掃員の男が送る日々の小さな揺らぎを描いたドラマ。
東京・渋谷でトイレの清掃員として働く主人公の平山。ちょっとした日常に小さな喜びを感じながらも、淡々とした同じ毎日を繰り返している。そこに小さな騒動が起き、平山さんの人生、人物像が垣間見れる。
平山さんは東京の下町のボロアパートで質素な生活を送ってる。貧しいというよりも質素。
「こんなふうに生きていけたなら」 というキャッチコピー通りの慎ましい生活を見事に描かれていてとても美しい映画だった。私はいつもの見慣れた風景を見ながら近所をふらりと歩くのがすきだからかなりの萌えな映画。
だから、これを美しいと思う感覚は私は否定はしない。わかり過ぎるぐらい愛おしい感覚だ。
その一方で、川上さんと同じような感覚がどこかしら頭にはあった。
持てる人たちが「平山さんの生活は、静かで満たされていて美しくて素晴らしい」というのは、そりゃ彼らは豊かな観察者だからそれはそう思うでしょうけれど、肉体労働をしていたり、相談できる人が誰もいないというような若い人たちがこの映画を観てどんな感想を持つのか、非常に興味があります。
平山さんのもとを訪れる妹さんは運転手つきの生活をしているいわゆる富裕層である。「違う世界の人がいる」という事を表すに為の象徴であるのだけど、私の目線からは、平山さんが野垂れ死にそうになっても、行政が「家族やろなんとかしろ」と連絡したら、さっさと引き取ってくれそうな「実家の太さ」だ。「選択的没落貴族」という、元々は高い教養もあったため古本屋で本を買い本を読んだりするささやかさも可能。そもそもボロいと言っても東京の下町で、駅から離れていたとしても、チャリをちょっと使えば駅にもいろんな施設にもそおそらく20分もかからずにアクセスできる。
ただ、ビム・ベンダース監督は日本の美意識にも深い興味と知識があるゆえにとても美しく描かれている。
木漏れ日という言葉が出てくるが、これは
この本でも世界に向けて発信されてるという日本特有(?)の表現らしい。本ではその他には「侘び寂び」と、「ぼけっと」、「積読」が紹介されている。
平山さんの生活は侘び寂び、ぼーっとする。そして家に近所に本が積み上がっている。
平山さんが最後に言うセリフ、「ずっと変わらないというわけなんかない。そんな馬鹿なことはない」
川は同じように流れていて、木々もいつも通り風に揺れている、けど日々常にささやかな変化を続けて、目には見えないようなコアな部分では物質が移動し、生命が移ろうというダイナミックな変化が起こっている。それはやっぱり「静」の中で生活しているから感じられる喜びなんだろうなというのは思ったりする。
「こんなふうに生きていけたなら」
街のトイレは映画に映るよりももうちょっと生活感があって多分汚れているんだろうけど、少なくとも身の回りの多くの施設のトイレはいつもそれなりに綺麗。
パーフェクトというのは、どんなに人が爛れた生活しても、割とすぐにそれなりの整った形になるみたいなのが理想なのかなとかも思いを馳せてみたり。
そんな感じで。
ばいちゃ